昭和43年3月11日 朝の御理解
中村良一
昨日の朝、信心の手掛かりを掴めと。手掛かりなしには、信心が分からん。おかげも受けられん。だから、手掛かりなしには、お徳も受けられないという様な御理解を頂きましたですね。今日は、足がかりという事を聞いて貰いたいですね。手掛かり、足がかりという事。良いおかげにしていくためには、足がかりがなからなければ、良い信心を登っていけません。例えて申しますと、正月に、青年会の方達が中心で、御本部参拝を致しましたですね。その時に、出来た足がかりが、須田先生との関係でございました。足がかりです。そして、須田先生がお出でて頂く事になり、合楽の信心に、一段と、一つの勢いが増したという事も、こら事実でございます。
昨日は、文化ホールでの、須田孝太郎先生の講演を頂いて、そして、久留米教会での、最後の反省会を終わられましてから、こちらに見えられました。夕べ、お月次祭に見えた方は、先生のお話を、また改めて、今度は、教外者向けではない、いわゆる、本当に、先生自身の御信心。または、お父さん、お母さんの御信心を、お話してくださいました。足がかり。いよいよ、合楽が、私は、合楽をPRする意味はないですけれども、合楽の信心がですね。いよいよ、本当の信心であって、なるほど、こういう生き方で行かなければ、おかげは受けられない。お徳は受けられないといった様なものが、内容にあるとするなら、これが、全教的にです。やはり、PRされなければいけないと思うんです。いうなら、宣伝されなければ駄目だと思うんです。というて、私共が、自分で自分の事を宣伝したって、こんなつまらん事はありません。人から人へ、口から口へと伝わって行く。そういう意味で、私は、神様が、いうならば、宣伝しておって下さると、こう思うのです。ですから、いよいよ、私共の内容である信心が、立派でなからなければ。レッテルは立派、レッテルは本なもんじゃけレども、中身は違うとったという様な事では、だから、いけんのでございます。そこんところを神様は、お繰り合わせ下さっておる訳です。私共には、いよいよ、信心の内容。
昨日も、高芝先生のお話の中にもございましたように、もう、とにかく、金光様の御信心は、修行を抜きにしたら、もう、骨抜きだ。表行よりは心行をせよと仰るからと言うてです。布団の中から拝みよりますという様な事で、おかげの頂ける筈はないじゃないか。金光様が、やっぱり、三時五十分に、広前にお出ましになる。四時からの御祈念を終日して下さる。その、金光様の御信心に対し祀ってでも、ぬくぬくと、布団の中にでも寝ておられるものか。そこに、私は、金光教の、本当の信心はある。私共、親子二代にかけて、その事を、まぁ、私の方の父は、とにかく、朝参りの事だけしか申しませんでしたでしょうと言うて、お話になっておられたように。私も、やはり、そうだと言うておられます。朝は、どんな時でも、必ず、お水をかかる。そして、朝参りをなさるという。もう、金光様の御信心は、朝参りを抜きにしたら、本当のものは得られないという。もう、断言しておられましたね。と言うように、お話を頂けば頂くほど、頂けば頂くたびにです、私共の、信心の内容というものが、なるほどと、本当な事になってくる訳なんです。
今日は、北九州の青年教師の方達が、ここで、昼から、集まられます。一時からですかね。そして今晩、一晩泊って、信心の共励をなさいます。若い先生方が、いかにすれば、人が助かるか。どうすれば、教会のゴヒレイを頂く事が出来るか。まぁそういう事を、おそらく、熱心に検討される事であろうと、こう思う。同時に、また、合楽に見えられたという事はです。合楽のあり方、生き方を、やはり、勉強したい、研修したいという気持ちも、大いに、あろうと思う。まぁ、教会になったばかりの合楽にですね。けれども、そういう様な事がですね。それこそ、神様の宣伝ですよね。神様のPRによって、そうして、段々、認められて行きよる、合楽は。そこには、今日、私が申します様に、もう実に神ながらな足がかりがあるという事です。おそらくは、今日明日行われる、青年教師の方達がです。また、PRして下さるに違いないのですよ。合楽の信心は斯く斯くだ。なるほど、今まで分からなかったところが、分かったという様な事になってくりゃ、なおさら有難いこと。私が、例えば、こう、自分で、こうだ、あぁだと言わなくても。人から人へ、しかも、中心へ中心へ向かって、この合楽が進出していけれるおかげ。それは、合楽が進出して行くという事はね。そのまま、お道の信心が、私は、進出して行く事になると、私は、確信いたします。そうは、皆さん、思われませんか。なるほど、足がかりだなと。そこでです、昨日の信心の、あの、手掛かりからです。本当の事が分からせて貰うて。そこからです、手掛かりが出来て、本当な事になってくるとですね。必ず、次には、足がかりがあるという事をです。もし、手掛かりは頂いたけれども、足がかりが無いとするならですね。それは、本当のものじゃないという事を、一つ悟らにゃいかん。
テレビでやっとるでしょう、銭形平次、ね。いわゆるあの、捕り物帳ですね。もう本当に、思いもかけないところに、推理されて、そこに、手掛かりを得て、本当の、いわゆる、星を追及して行く訳ですね。ここに、その平次の、対照的なのに、あの、何とかというのがおりますね。まぁいっちょ、親分が居るでしょうが。あれの推理は、何時も、浅い推理です。それで、いうならば、本当の犯人じゃない犯人を捕まえて、これが犯人だといった様な事を言っておるでしょう。そして、さぁ俺が捕まえたんだ、俺が召し捕ったんだという風にしておりますけれども、平次の本当の推理には叶わない。本当な犯人が上がるための、過程の様なものである。ちょっと、素人考えでは、その親分が、揚げておる犯人が、本当の様であるけれども、本当でない証拠にです。次の足がかりが生まれてこない。私共は、信心を進めて行っておるうちにはですね。ははぁ、今日は良い御理解を頂いた。ここを一つ、手掛かりとして、信心を進めて行こう。いや、これをですね、手掛かりを得たと言うただけではです、ね。それは、あの、何もならんとですよ。はぁ、ほんにここだ、思うただけじゃいかんですよ、信心は。はぁなるほど、これじゃ、私はおかげ頂けん筈だと、分かっただけじゃいかんとですよ。それからね、いよいよ、一つ、推理して行かにゃいかんとです。手掛かりを得たら、いよいよ、そこを、押して押して、押し抜いていかにゃいかんです。あぁでもなからにゃ、こうでもなかろうかと。それをまた、練っていかにゃいかんです。それでいてです、ね。足がかりが出来ないとするならば、これは、もう一遍、元に戻らにゃいかんです。私は、今日、皆さんに、昨日の、手掛かりから、足がかりにかけての御理解を、皆さんに聞いて貰っているのは、そこんところを一つ、分かって貰いたいと思うのです。おかげへ向かっての、いわば、足がかりというものが、そこに出来てくる。はぁ、こらさと分かった、それをもう、それだと思い込んで、それを行じておる。五年たったっちゃ、十年たったっちゃ、いっこう、おかげにもならなきゃ、徳にもなってる風ではない。それでも、やっぱ、それをそうだと思い込んでおるという様な人が、今、教団の中には、どの位沢山おるか分からんです。ね。
昨日、孝太郎先生が、お話になっておられたですね。私は、あれは、お世辞じゃなかったと思う。皆さんと、こうやって、お話を聞いて頂いておる。皆さんの目が、生き生きと輝いておる。皆さんの心がです。もう本当に、追求してやまない。手掛かりを得ようと、一生懸命。そういうものを、やはり、孝太郎先生は感じられたのでしょう。いよいよ、私は、真犯人というかね。真のおかげですよ、言うたらね。真のおかげを、私は、得るまでは、そこん所の追求というか、推理の心、推理の、その手を緩めてはならない。そして、例えばです、そしていて、三年たっても、五年たっても、手応えが無いごとあるならですよ。これは、もう一遍、推理をやり直さにゃいかんです。足がかりが出来ないとするなら。なるほど、この調子で行きゃ、おかげが頂けれるという様なものが、感じられて行くならば、これは、別です。けれども、それが無いならですね。自分が、はぁこれがと思っておったのは、それは白であって、白黒というですね。真犯人の事を黒。それが、犯人じゃなかった場合には、白になったと、こういうように申します様にですね。これは、もう一遍、他にあるのですから、やり直さにゃいかんです。それを、もうそうだと思い込んでおる人がある。私は思う、というて言われます。各教会に、お話に参りますが、その教会に、もし、若い層の信者が、いない、出来ないとするならば、これはもう、絶対に、何処にか間違いがあると言うておられますよ。ただ、ご信心が、お爺さん、お婆さんばっかりといった様な感じのですね。もし、お広間であるとするならばです。これは、その教会に、何処にか癌がある。いわゆる、本当の足がかりになって行きよらん証拠なんだ。本当の手掛かりというものを掴んでいない証拠なんだ。手掛かり、足がかりと仰らなかったけれども、 そう仰ったでしょう。私も、そうだと思いますですね。こういう有難い信心をです、年寄りだけの物に、しておけれる筈がない。若ければ若いほど、お道の信心には、私は、心を燃やさせて貰える様な内容を、お道の信心は持っておる。心たぎらさなきゃおかん様なものを持っておる。ね。
昨日、久留米の、青年会長、それから、信徒会長と二人で、そすと、若先生と三人で、あちらへ、反省会に残りました。そして、今日のあの、質疑応答の時に質問されたのは、どこの方じゃったじゃろうかという事であった。あと二人ながら、合楽で、本当に詰まらん質問をしましてすみませんちうて、秋永先生が言うたら、いいえ、素晴らしいち。ポイントを衝いて来ておる。素晴らしい質問でしたち、と言うてから、大変こう、あの、褒められたと言うんですね。しかも二人は学生です。二人とも、まぁ、大学生です。私も聞きながら、それを思うたんです。はぁ、素晴らしい事を質問しておる。その事によって、ほんなら、満場の人がです。若いのが、ところが分かるという様な感じであった。若い勢いがです、躊躇する事が無い、はぁ、聞きたいばってん、遠慮しとこうという様なこっじゃない。「はい。」もう、それこそ、もうそれが、おそらくです。あれが、もう少し時間があったりしとったら、合楽でも、次々と、若い青年層、学生層が立ったに違いないです。それはです。例えばこれは、私を中心として、信心の、何時も手掛かりを得ようと努めておる。その手掛かりを、本気で行じさせて貰うて、そこから、次々と足がかりが生まれてきて、おかげを頂いておる姿が、私は、若い方達の信心の、あぁした、生き生きとした働きになって来ておると、私は思うんですよ。皆さんに於いても同じこと。足がかりが得られない様な、私は、ものであったら、もう一遍、自分の推理違いであるという事をですね。これは手掛かりだと思ったけれども、これは、ほんなもんじゃないなという事をです。けれども、それを行じてみない事には分からん。
子供があの、コマを回します。はぁっとこう、それこそ、何か、水が澄んで行くように、この、良く回るかと思うとです。ここで、どどってまう。この辺の言葉は、どどるち言うですね。どうしてか分かるでしょう。根がきちっと、真っ直ぐに打ち込んであるに。そういうコマならば、すーっと、それこそ、スムーズにまうのです。ところが、根がよがんでおったり致しますとです。いわゆる、どどるです。私達の、生活の中にです。どうも、スムーズさが無い。どどっておる。経済の上にも、人間関係の上にも、体の状態の上にも、どうもスムーズさが出ない。これは、孝太郎先生が仰るようにね。教会に、若いものが生まれない、若い信心層が無いならばです。その教会は間違うておると言うようにです。どうもここに、スムーズにいかないとするならばです。どこかが間違っておるのですから、そこん所の一つ、真犯人を追うていかにゃいかんです。どこに、どどる元があるか。なるほど、心、根が、根が真っ直ぐに打ち込んでないもん。真っ直ぐ打ち込んでないもん。改まろうち思うとらん。研こうち思うとらん。本気で、限りなく、美しゅうなろうと言う、意欲が無いもん。これじゃ、何時までたったっちゃ、どどりよるです。こんなに、はっきりしておるのでございますから。真っ直ぐに、信心を打ち込んでいかにゃいかんです。
なるほど、ここで、次々と、いろんな行事があります。この二十四日には、今度は、北九州信徒会の、北九州全体、大牟田あたりから、北九州全部、教区管内ですから、の、教会の幹部の方達が、三名以上ずつ、合楽に集まってくる事になります。おそらく、何百名になるでしょう。それに、ここの信者も併せますから。いわゆる、合楽へ合楽へと、みんながやってくる訳なんです。ところが、とても、行ってみらにゃ分からん。なるほど、行ってみなけりゃ分からん。うわさ以上だと、例えて言うならば、という様な内容がです。まぁ見て下さいという意味じゃいかん。けれども、本当に、内容があれば分かる。溢れてくるんです。雰囲気が生まれてくる、必ず。いよいよ、合楽にかけられた、神様の願いというものがです。このような形で、神様が、足がかりを作りながら、本当の信心、本当の信心として、これを、全教的なものにでも、高めて行こう、進めて行こうとなさる働きを感じます。ご縁を頂いておる、皆さんの一人一人が、まず、信心の手掛かりを得て、それを本気で行じて。そこに、足がかりの体験を頂いて、一歩一歩、信心を本気に高めて行かなければいけない。ね。手掛かりを、しっかり持っておる様であっても、もし、足がかりが無いとするならです。そりゃもう、間違うとるとじゃから。昨日、後から、話が出ておりましたけれどですね。どげん、立派な事を言いよってもです。そら、ほんなごつのごと言いよってもです。現実に、足がかりが無い。いうならば、第一、さぁ、家は、何百人参るち言いよったっちゃ、実際、誰も参っとらん。少ししか参っとらん。しかも、お年寄りばかりが、ちっとばっかり、参っとるだけ、といった様な、例えば、教会の例をとっておられましたがです。こりゃもう、絶対、間違うておる証拠なんだと。教会が、ほんな生き方じゃない。足がかりを、一つも持ってない。足がかりが生まれてくる筈がない。ほんなこっじゃないもの。だから、と、悟らせて頂いたらです。これは、皆さんの場合でもそうですよ。何時まで経っても、信心の足がかりというものが、生まれてこないとするならばです。本気で、もう一遍、始めから、やり直す気持で。自分の信心の進め方が間違っていたと。と、新たな手掛かりを頂こうとする信心意欲がね、持たれなければならないという事。昨日、手掛かりという事に対して、今日、足がかりという事で、御理解を頂きました。同時に、昨日、秋永先生が、言うておりました。もう、それは、昨日、孝太郎先生が、ここへ来て貰うまでの、タイミングというかね。もう、誰が、何というて、それこそ、どんなに教会が、今、今の合楽の神様はね。もう、束で来たっちゃ、合楽の神様にゃ叶わんち、昨日、秋永先生、そういう風に表現しております。と言うほどにです。もう神様が、生き生きとしておられるという事なんです。
私は、昨日、関さんの従妹さんが、あちらへ行かれて、昨日、ここへ見えた時に、私が、お話半ばに、それこそ、言わじゃたまらんという様なね。あちらでその、頂かれた事を言われましたですね。私はあの、お話頂きよる時に、神の神というですね。その、まぁ言葉だろう。そういうものを頂いたげな。これは、私はもう、実際は、昨日、すぐ分かったんですけれどもね。それを、私、説明する訳にいかない内容だったんですよ。いうならば、金光様の神様に、変わらないでしょうが、いうならば。けれども、秋永先生が、昨日、言われるですね。それこそ、どれだけ沢山の教会の神様がですね、いうならば、向こうて来てもですね。今の合楽の神様にゃ叶わんてこう言う。昨日、そらそうでしょうね、孝太郎先生を、ここへあの、見えるという迄には、それこそ、もう、大変な問題があったんです。あちらは。ところが、あまりにもスムーズ、あまりにも自然な、その事になってくるもんですから。もう、いうならば、トンビに油揚げさらわれたといった様な感じでですね。もう大変、向こうの方達に対しては、気の毒な感じだったんですけれどもですね。そこんところを、秋永先生は言ってる訳なんですよ。もう、どれだけ沢山の神様がですね、そこにですね、同じ金光様、同じ天地の親神様でもね。その、現わしておる、その神様によって、どれだけの神様が、向こうて、いわゆる、神の神なんです。まだ、神の神なんだ。そういうね、私共は、今、神様の働きの中にあるのでございますから。その神様の働きを、本当に、頂かせて頂くためには、その神様との、繋がりが出来る手掛かりを、もっと作るらにゃいかんて。そして、足がかりという体験を、はぁ、この調子で登ってさえ行きゃ、真のおかげが受けられるぞという、足がかりを作っていかにゃいけん。また、大きく言うならばです。合楽のお広前の上には、そのような、今は、様々な、あらゆる角度からです。神様が、いよいよ、足がかりを作っては、手掛かりを作っては、いよいよ、伸びよ、いよいよ大きく、おかげ頂かせて頂こうという働き。それもです、ただ、合楽が大きくなって行くというのじゃない。合楽の信心がです。本当に、全教的に、あぁいう生き方、あぁいうあり方こそ、本当に、人が助かる御広前というのは、あぁいう様な生き方だというものをです。神様がこう、PRしようとしておられるという事を、私共は感じます。ですから、そういう働きの邪魔にならん様な信心をです。お互い、せにゃいかんという事が分かるでしょうが。これは、大きい意味合いに於いて、そうなんです。皆さんの上に於いても同じこと。手掛かりを作ったり、足がかりを、皆さんの家庭の上にも作らせて頂いて、また、足がかりが出来る様な体験を頂いて、信心を進めて行かなければ、信心の楽しみが無い。どどっておるなら、こりゃ、真っ直ぐ打ち込んでない証拠なんです。どうぞ、そこんところを、本気で一つ、分からせて頂いて。そこんところを、真っ直ぐに打ち込ませて頂けれる信心を求めて、いよいよ、手掛かりを作り、足がかりのおかげを受けて、信心を進めて行かなければならんと思うのでございます。どうぞ。